2007年08月25日

取材日記・相生(壺根古墳遺跡)

気がついたら、もうすぐ9月・・・やっと日記を書く時間がとれました。

皆様ご無沙汰しております。
何してたかと言いますと、NPOの設立と相変わらず地図ばっか描いてました。
9月後半発行の「まっぷるマガジン熊本2009」と九州の温泉のやつです(名称覚えてません・・・)
本屋に寄ったときにでも見てください。

さてさて、今回の取材日記ですが、既にヘッダーは1日に更新されていますのでご存知でしょうが「相生」でございます。(もう次の原稿も描きはじめてるけど・・・。)

播磨国風土記の中ではごく簡単に「白貝(おふがい)が多く取れる浜がありました、だからそこを白貝浦(おふうら)と名づけました」とだけあるだけなんですがね。

で、これだけじゃ面白くないんで、例によってたつの市新宮町歴史資料館の文献あさりをしてきました。

その日は資料館は閉館だったんだけど職員の人に開けてもらってゴソゴソ調べてると、神戸新聞の記者も調べものに・・・
結構な時間うだうだ話してたけど、地元の事を知ろうと調べに来てるって、えらいねー。


さて本題に戻って、白貝が取れた地域を見てみると結構広範囲で取れてたみたいです。
そういえば前に、神戸大学と花園大学の研究者と、いつもお世話になっているY氏と新聞記者Hと共に御津沖の唐荷島に調査(取材)に行った時も大きな貝殻がゴロゴロしてましたわ。


語源に関して、相生は近年まで表記は「相生」と書いて「おお」と呼んでいたそうです。
由来は文治2(1186)年、海老名盛模が相模国から来住した時、「相」の字をとり居城「大島城」から呼び名をとって「おお」となったそうです。

その前は相生湾を那波浦(村)大浦(字)といっていました。

那波浦の記述は三並記の「荒神山三島社」の項に出てきます。
内容は、神宮皇后が三韓征伐に向かう時の水師軍の要港であったことなどが書かれています。

そんなこんなで色々と見ていって思ったのですが、「白貝浦はどこか?」って細かく突き詰めようと考えてる学者先生が多く、突き詰めた意見で書いてるのがほとんどでした。
それはまぁ重要なことではあるんだろうけど、個人的にはそんなせせこましい考え方やめて、相生からたつの市御津町大浦のあたりまでの広域で、貝の取れる地域をそう呼んでいたで良いんじゃないかなぁと思ってしまった。

ほんでまぁ、調べて行くうちに相生湾の端のほうに、古い時代にその周辺に住んでた人たちの古墳があると言うので行ってきました。




2号線の相生駅の手前から入り道の駅ペーロン城の横を通り、赤穂方面へ向かって行くと右手に相生産業高校がある。
向かいに左折して入る道があり、そこをあがっていくとIHIの海側に抜ける道と、赤穂の漁村へ抜ける道がある。

取材日記・相生(壺根古墳遺跡)

赤穂側に抜ける道を進んで行っていたら漁村に抜けてしまった・・・。
どこかで左に折れて海沿いに降りないといけなかったのにどこでどう間違えたのか・・・
Uターンして元来た道へ。
少し戻ると遺跡のある漁村方面へ降りる道を発見。

間違うはずもないであろうところで間違ってしまう自分が情けない・・・。

気を取り直してドンドコ進んで行くと道がだんだん細くなっていき、ついには行き止まり。
その行き止まりの右手の斜面に目指す「壺根古墳遺跡」があった。

ここでちょっと疑問が・・・。
表記が違うのである。
「壺根」のはずなのに「坪根」と書いてある。
ん~、相生の教育委員会さん。ホントはどっちなんですかいなぁ?

取材日記・相生(壺根古墳遺跡)

ま、取りあえず車を止めて古墳に上がってみる。
古墳は斜面に石で細長く囲って石室が作ってあるところに、平らな石を蓋のように置いてあるものが数基あった。
小さい頃から新宮にある「姥塚古墳群」や「宮内古墳群」を見て育った僕としては、規模的なものではちょっとものありなさを感じてしまった。(まぁ豪族の墓なんで規模を比較しちゃいけないんだけどね・・・。)

取材日記・相生(壺根古墳遺跡)


取材日記・相生(壺根古墳遺跡)

しかしこうやって何世紀も前の一般の人の墓が残っていて、当時の生活用品も副葬されていて、古代の生活を想像する手がかりが残ってるってのもすごいよな~・・・とか、ボ~っと海を見ながらほうけてみた。

取材日記・相生(壺根古墳遺跡)


ほうけついでに、神宮皇后が三韓征伐に向かう時にこの浜で舟の準備したり祭事を行ってたんよなー・・・と穏やかな湾を見ながら妄想してると、今もこの湾は舟に関係してることが多いよなとはたと気づいた。

湾は入り組んでいて、外海(って言っても瀬戸内海なんで比較的穏やかだけど・・・)が荒れていても、湾内はかなり穏やかだし、今もIHI造船所があったり、ペーロン祭でレースをしたりと舟に関することが多く行われているのも、湾の形が影響して発展してきたことなんやろなーと思いにふけって見ました。

余談ですが、当時は今よりももっと奥地まで湾が入り込んでいたようで。
古い文献から見ると、那波野辺り・・・・今の相生駅辺りまで湾だったようです。

平安の頃には舟を浮かべて舟遊びもしていたようですし。

そういや相生湾は万葉集にも歌われていた。
確か対岸の山の上には相生荘があって、その近くに万葉の岬なんてのもあるのを思い出した。



さて帰ろうかと車に戻って、ハッと気がついた。
Uターンしようにも神戸ナンバーの車が一番奥に止まっていてウンともスンともならない状況。
数100メートルバックするのもな~っと思ったから、ちょっと頑張ってみたけどやっぱりUターンはできず。
しょうがないとあきらめてバックで戻ろうと下がっていると、あらあらこんなところに車の止まってない駐車場が。
個人宅だったんだけど、申し訳ないけどそこで向きをかえさせてもらいようやく帰ることができた。

地図はこちら



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