2007年10月04日

取材・佐用(讃容の郡)

いや~、先月は取材日記をズルズル残してたんで今回はタッタと書いちゃいましょう!

まだ今回も名称の起源の続きですが、今回から微妙に播磨の起源となる神話の話を時系列的に続けて描いていこうかと思います。(そのうち播磨国風土記年表でも作ろうかと思いますので、しばしお待ちを!)

と言うことで、今回からは播磨国を統一していく「伊和大神」の話から進めていこうかと思います。
しかし、すでに今までのヘッダーを読めばお分かりでしょうが、ここに出てくる神さん達はフラレたり、嫉妬したり、親子喧嘩したりで、あまり神々しい雰囲気じゃ無く・・・描いてる方も結構楽しいですなニコニコ


播磨の起源の神話を描くにあたって、その周辺の時代の事とか、登場人物についてとか先にちょっと説明しときます。

今回から続けて出てくる「伊和大神」(伊和族)ですが、出雲の国から来た一部族だとか、播磨統一の過程で土着の神を習合していったためそう呼ばれるようになった・・・とか言われてるそうです。

また「伊和大神」は「大国主命」の別名「葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)」で出てくることを思うと、「伊和大神」は「大国主命」もしくは「大国主命」の八十神(やそがみ:多くのの神さまのこと。この場合、大国主命の兄神)では無いであろうかとも言われています。


時代的なものでは「古事記」や「日本書紀」から読み取ると、天津神(天の神さん達)が国津神(地上の神さん達)から、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)で譲り受けた(・・・?たぶん取り上げ・・・)後の話ではないだろうかと思う。

国譲りがあると、政治の中心が大和になっていく。
そうすると色々な部族が中央に出向いていく・・・都会に立身出世を求めて・・・。
そんなのを田舎で聞いてた伊和族も、遅れまいとついて出てきたのではないだろうか。
でもその途中で自分達で仕切れそうな国・播磨を見つけ腰を落ち着けたようですね。

そんな時の話です。

今回は伊和族ご一行が、出雲から播磨に入ってすぐのところの佐用の名称と佐用都比売神社にまつわる話です。

実は私1999~2001年までこの近くの中学校で美術の先生なんてしてたんですな。
それで何度か祭りの時に補導に来たことはあったのですが、久々に行ってきました。

龍野太子バイパスから説明すると、福田を龍野方面で降りて国道179号線をえっちらおっちら、新宮を通過し三日月、南光を越えて佐用に入ります。

余談ですが、新宮三叉路を左折せずに山崎側に少し行って左に行った新宮小学校の向かいに、私がこの取材とか歴史的なことを調べたり教えてもらったりしているY氏がお勤めの、たつの市埋蔵文化財センターがあります。(新宮総合センター内)
この埋蔵文化財センター、ちょっとかかわりが深く昔私がバイトで復元・着色した土器が展示してあります。

地図はこちら
たつの市埋蔵文化財センター


さてさて、そのままずんずん進んで、佐用坂を越えた後最初の十字路を右に曲がり川沿いを数百メートル行くと、左手の川と田んぼ越しに消防署が見えてきます。
その前の道をズズッと入って行き消防署の前を通り少しいくと、コンモリとした木立ちの塊があります。
そこが佐用都比売神社です。

ドン着きに駐車場があるのでそこに車を止めれます。





周囲は田園に囲まれのどかな雰囲気が漂ってます。
とはいえやはり山間部なので、農地よりも山林の活用の方が多いみたいです。

佐用都比売神社側に行かず、そのまま智頭街道を少し北上すると、宿場町の道の駅「平福」があり、車を止めて旧街道沿いや川沿いを散策するのをお勧めします。
川沿いの町並みはとても雰囲気が良いですよ。

他にも、佐用は星の町で西播磨天文台がおかれ、たしか2・3年前に世界最大の公開望遠鏡『なゆた』はがあります。
夜に行くとものすごい星で、かなりの感動です。

なんだか観光案内みたいになっちゃいましたが、佐用はそんなところです。

あ、そうそう確か10月30日が佐用都比売祭だったはず。
もうすぐですので是非一度お尋ねくださいね(結局観光案内かよ!笑)

地図はこちら
  

Posted by どっちゃん at 11:42てんこもり劇場・播磨国風土記

2007年10月01日

取材・姫路(日女道丘)

いや~、とんとお久しぶりです。
夏は長期の取材やらイベントやらで、書きそびれてズルズルとなっていました。

さてさて第4回のてんこもり劇場は姫路の語源となった日女道丘(現:姫山)の話です。

原稿を描くにあたって調べてたら、ちょっとビックリしたことがありました。
風土記が書かれたころ・・・というか江戸時代あたりまで、姫路平野は川の氾濫で「海に似た状態」だったため、今の市街地は人が住みにくい状態だったそうです。
まぁ、それとなく耳にしていたんだけど、場所的に言うと山陽自動車道路の走っている辺りの山すそから南側がほとんど水浸しだったとか・・・・・・オドロキ

船で新在家のあたりまで行けたってのに驚きですね。

水浸しの状態でポコ・・・ポコ・・・って突出した山(丘)があって、その山すそすそに人が住んでたそうです。

なんでそんなだったかというと、姫路平野には6本の川が流れ込んでいて、それぞれが暴れ川だったたそうです。

きちんと治水がされたのは江戸時代に入ってからで、今の姫路の市街地はそれ以降発展してきたそうです。


そのせいで風土記には現市街地のことはほとんど載ってなく、山すそ沿いの話が載っています。

そこで気になるのは、今の姫路の載っている風土記は「飾磨の郡(しかまのこおり)」
今飾磨と言えば、当時は海だったはずの浜手。

気になったのでちょっと調べてみると、古くはやはり現姫路周辺のかなり広い地域をそう呼んでいたそうです。
ちなみに姫路市の北東部に「飾東(しきとう)」北西部に「飾西(しきさい)」と当時の地名が名残として残っています。

ちょっと余談ですが、廃藩置県により1871年、姫路県が発足しました。姫路も一時期県として存在したんです。
その後、飾磨県となり、1876年兵庫県に統合されて今に至ります。
県庁舎は姫路城からちょっと西に行った薬師山麓の空き地(旧姫路赤十字病院跡地)にあったそうです。


さて、場所ですが・・・皆さんご存知の通りJR姫路駅正面口から出たら、目の前に姫路城が見えます。そこが姫山です。
ちなみに西の丸のあるところは鷺山です。天守閣がある方が姫山です。
駅からテコテコ歩いて15~20分くらいで行けます。

地図はこちら

さすがにここは迷子になりませんです。はい。


そうそう、私が描いた「姫路城の散策マップ」が税込み500円で売店で売っていますので(他のところでも売っていますが)、よろしければ是非お買い求めください(笑)  

Posted by どっちゃん at 00:29てんこもり劇場・播磨国風土記