2009年01月19日

取材・宍粟(揖保の里・前編)

今回からいよいよ宿敵「天日槍命」との対決になってきます。

播磨国風土記では、天日槍命の解説は無く、いきなり宇頭川(現:揖保川)河口にやってきているとことから始まるので、少し天日槍命について解説しときます。

天日槍命は古事記・日本書紀にも登場する神で、元は新羅の国の王子です。
その王子がなぜ日本に渡ってきたくだりを「Wikipedia」より抜粋して載せます。

『古事記』より。
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。
すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。
ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。
ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。
男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。
ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。
しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社(大阪市東成区 現在の主祭神は大国主の娘の下照比売命(シタテルヒメ))に逃げた。
ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。
この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。
しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。

『日本書紀』より。
垂仁天皇3年春3月に新羅王の子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参し渡来した。
また、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとしている。

これらの神宝は太陽神を祀る呪具であり、朝鮮からの渡来民が使っていた太陽神を祀る祭具と考えられる。
「ヒボコ」という名前自体が太陽神を祀る祭儀で使われる矛を表しており、それは太陽神の依り代である。
またここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地である。
定住した但馬国では国土開発の祖神とされ、現在でも厚く信仰されている。
これらのことから、アメノヒボコは出石に住んでいた新羅系の渡来人が信仰していた神と考えられる。



とまぁ、逃げた妻を追っかけて大軍できたわけで。
それが難波につく前に揖保川河口で休もうとしたところ、上陸をよろしく思わない伊和大神がそっけない扱いをするのでそれに天日槍命は怒ったんですな。
それがきっかけで争いが始まるのです。

プライドが高いってダメね~ぇ。

それで今回は、まず揖保川の河口に・・・と思うのですが先に、揖保川が宇頭川といわれたのは、宇頭川は渦川とも書かれる事からもわかるように、昔から暴れ川で氾濫を繰り返していたからだとも言われています。

天日槍命怒って剣を抜き、海中をぐるぐるとかき回す表現があるのは、実は川の氾濫を暗示したことでもあったのでは?と思ってみたり。

てなわけで一路河口へ出発!
実は長年揖保川の近くに住んでいるけど、揖保川の河口って行った事がなかったのでちょっと楽しみでした。

うちは揖保川沿いなので川に沿って南へ南へ。
国道2号線を越え、途中御津の方に抜け国道250号線を少し東へ行き、揖保川東岸を南へ南へと抜けていきました。


だんだんと船が土手沿いにつながれはじめ、川幅も広がり河口が見えてきたら、対岸に工場地帯が出てきた。。。あぁここも埋め立てられてしまってできた河口なのかな・・・とも思ったんだけど、走ってる側は古い町並みもちらほら残ってるところを見ると、どうも無茶に埋め立ててムリクリ土地を作ったわけではなさそうな感じもした。

とりあえず車を止めれそうなところを見つけ海辺へ近づいてみるも、やっぱりコンクリートで固められてましたガーン
まぁ、そらそうだわね。

河口を確認したのでそこから道を戻り、次の目的地、揖保里の名前の由来となった「粒丘(いひぼおか)」へ向かう。
と、思っていたのに、ボ~っと走っていたらついつい西岸に渡ってしまい、その後行こうと思っていた粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)・・・通称:粒坐神社(りゅうざじんじゃ)に・・・。

てなわけで、久しぶりの粒坐神社。

うちのアトリエや龍野藝術工房 伊勢屋が近いこともあり以前はチョコチョコ来てたんですけどね。
玉垣の工事終わってからは初めて寄りました。



この粒坐神社にも揖保の由来があるんですが、播磨国風土記とは違うものが伝わっています。

内容は『火明命の使者から稲の種(これを〝イイボ〟と呼んだ)を授かり、植えたところ大豊作となったため、当地を粒(イイボ)と呼ぶようになったという。』ものです。
播磨国風土記の方はというと・・・まぁ、これは後編で書きますのでそれをお楽しみに。

駐車場に車を止め、テコテコと本殿に向かうため急な階段をあがる。
途中後ろを振り返ると、龍野の町が一望できる。

龍野の風景の中でもここは昔ながらの瓦屋根や煙突があり雰囲気が良いので、結構お気に入りの風景でもある。



本殿にお参りをした後、右手奥に進んでいくと菅原道真を祀る菅原神社があるのだが、その額縁を支える獅子が素敵な青色でハート


その奥には瑜伽(ゆうが)神社参道があるんだけど、この石段がまた急で味がある。
そこをエッチラオッチラ上って瑜伽神社に参って降りようとすると、膝が笑ってガクガクした。



ん~これは立派な運動不足ですながいこつまいった、まいった。


そうこうしてるうちに昼になったので、昼食をとり、「揖保里」の碑のある「粒丘」に向かった。


この「揖保里」の碑、実は以前、あかねの湯から帰りに迷子になってウロウロしてるときに偶然見つけてたんです(笑)
迷子にはなってみるもんですね。

 


ここまで来て時間も余裕があったので、そのまま北上することに。
そのまま川沿いに上がっていくと新宮の鶴觜山(つるはしやま)の先端に出ます。
播磨国風土記では「御橋山」として出てきますがその件はその回で紹介します。

で、鶴觜山・・・呼んで字のごとく鶴が寝そべってクチバシまで伸ばしてる格好をした山です。


この鶴の頭の所に磨崖仏(まがいぶつ)通称:イボ神さんがあります。
このイボ神さんは南北朝時代に彫られたものだそうです。

イボ神さんの下には川が流れててこの水をつけるとイボが取れるとか。
それでこの磨崖仏はイボ神さんと言われるそうです。

実は僕の鼻の頭に小さいころからイボではないんだけどなんか生えてて、それを取るんだとばーちゃんにここの水を鼻に塗られた記憶が。。。そんな思い出のあるところです。
ちなみに、拝殿は川を挟んで対岸にあります。

それからもう少し北上するとが天然記念物の屏風岩があります。

この下には「鯉の道と鬼の足跡」とかいう(・・・と記憶してるんだが・・・小さいころ父に聞いた話なんで・・・)、溝と穴ポコがあります。
つれてきてもらって遊んだ記憶はあるのですが、名称はあやふやで・・・すんません。また聞いときます。

気を取り直し、そのままテコテコ北上していくのですが今回はとりあえずここまでで。

  

Posted by どっちゃん at 17:06てんこもり劇場・播磨国風土記