2009年01月19日

取材・宍粟(揖保の里・前編)

今回からいよいよ宿敵「天日槍命」との対決になってきます。

播磨国風土記では、天日槍命の解説は無く、いきなり宇頭川(現:揖保川)河口にやってきているとことから始まるので、少し天日槍命について解説しときます。

天日槍命は古事記・日本書紀にも登場する神で、元は新羅の国の王子です。
その王子がなぜ日本に渡ってきたくだりを「Wikipedia」より抜粋して載せます。

『古事記』より。
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。
すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。
ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。
ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。
男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。
ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。
しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社(大阪市東成区 現在の主祭神は大国主の娘の下照比売命(シタテルヒメ))に逃げた。
ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。
この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。
しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。

『日本書紀』より。
垂仁天皇3年春3月に新羅王の子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参し渡来した。
また、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとしている。

これらの神宝は太陽神を祀る呪具であり、朝鮮からの渡来民が使っていた太陽神を祀る祭具と考えられる。
「ヒボコ」という名前自体が太陽神を祀る祭儀で使われる矛を表しており、それは太陽神の依り代である。
またここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地である。
定住した但馬国では国土開発の祖神とされ、現在でも厚く信仰されている。
これらのことから、アメノヒボコは出石に住んでいた新羅系の渡来人が信仰していた神と考えられる。



とまぁ、逃げた妻を追っかけて大軍できたわけで。
それが難波につく前に揖保川河口で休もうとしたところ、上陸をよろしく思わない伊和大神がそっけない扱いをするのでそれに天日槍命は怒ったんですな。
それがきっかけで争いが始まるのです。

プライドが高いってダメね~ぇ。

それで今回は、まず揖保川の河口に・・・と思うのですが先に、揖保川が宇頭川といわれたのは、宇頭川は渦川とも書かれる事からもわかるように、昔から暴れ川で氾濫を繰り返していたからだとも言われています。

天日槍命怒って剣を抜き、海中をぐるぐるとかき回す表現があるのは、実は川の氾濫を暗示したことでもあったのでは?と思ってみたり。

てなわけで一路河口へ出発!
実は長年揖保川の近くに住んでいるけど、揖保川の河口って行った事がなかったのでちょっと楽しみでした。

うちは揖保川沿いなので川に沿って南へ南へ。
国道2号線を越え、途中御津の方に抜け国道250号線を少し東へ行き、揖保川東岸を南へ南へと抜けていきました。


だんだんと船が土手沿いにつながれはじめ、川幅も広がり河口が見えてきたら、対岸に工場地帯が出てきた。。。あぁここも埋め立てられてしまってできた河口なのかな・・・とも思ったんだけど、走ってる側は古い町並みもちらほら残ってるところを見ると、どうも無茶に埋め立ててムリクリ土地を作ったわけではなさそうな感じもした。

とりあえず車を止めれそうなところを見つけ海辺へ近づいてみるも、やっぱりコンクリートで固められてましたガーン
まぁ、そらそうだわね。

河口を確認したのでそこから道を戻り、次の目的地、揖保里の名前の由来となった「粒丘(いひぼおか)」へ向かう。
と、思っていたのに、ボ~っと走っていたらついつい西岸に渡ってしまい、その後行こうと思っていた粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)・・・通称:粒坐神社(りゅうざじんじゃ)に・・・。

てなわけで、久しぶりの粒坐神社。

うちのアトリエや龍野藝術工房 伊勢屋が近いこともあり以前はチョコチョコ来てたんですけどね。
玉垣の工事終わってからは初めて寄りました。



この粒坐神社にも揖保の由来があるんですが、播磨国風土記とは違うものが伝わっています。

内容は『火明命の使者から稲の種(これを〝イイボ〟と呼んだ)を授かり、植えたところ大豊作となったため、当地を粒(イイボ)と呼ぶようになったという。』ものです。
播磨国風土記の方はというと・・・まぁ、これは後編で書きますのでそれをお楽しみに。

駐車場に車を止め、テコテコと本殿に向かうため急な階段をあがる。
途中後ろを振り返ると、龍野の町が一望できる。

龍野の風景の中でもここは昔ながらの瓦屋根や煙突があり雰囲気が良いので、結構お気に入りの風景でもある。



本殿にお参りをした後、右手奥に進んでいくと菅原道真を祀る菅原神社があるのだが、その額縁を支える獅子が素敵な青色でハート


その奥には瑜伽(ゆうが)神社参道があるんだけど、この石段がまた急で味がある。
そこをエッチラオッチラ上って瑜伽神社に参って降りようとすると、膝が笑ってガクガクした。



ん~これは立派な運動不足ですながいこつまいった、まいった。


そうこうしてるうちに昼になったので、昼食をとり、「揖保里」の碑のある「粒丘」に向かった。


この「揖保里」の碑、実は以前、あかねの湯から帰りに迷子になってウロウロしてるときに偶然見つけてたんです(笑)
迷子にはなってみるもんですね。

 


ここまで来て時間も余裕があったので、そのまま北上することに。
そのまま川沿いに上がっていくと新宮の鶴觜山(つるはしやま)の先端に出ます。
播磨国風土記では「御橋山」として出てきますがその件はその回で紹介します。

で、鶴觜山・・・呼んで字のごとく鶴が寝そべってクチバシまで伸ばしてる格好をした山です。


この鶴の頭の所に磨崖仏(まがいぶつ)通称:イボ神さんがあります。
このイボ神さんは南北朝時代に彫られたものだそうです。

イボ神さんの下には川が流れててこの水をつけるとイボが取れるとか。
それでこの磨崖仏はイボ神さんと言われるそうです。

実は僕の鼻の頭に小さいころからイボではないんだけどなんか生えてて、それを取るんだとばーちゃんにここの水を鼻に塗られた記憶が。。。そんな思い出のあるところです。
ちなみに、拝殿は川を挟んで対岸にあります。

それからもう少し北上するとが天然記念物の屏風岩があります。

この下には「鯉の道と鬼の足跡」とかいう(・・・と記憶してるんだが・・・小さいころ父に聞いた話なんで・・・)、溝と穴ポコがあります。
つれてきてもらって遊んだ記憶はあるのですが、名称はあやふやで・・・すんません。また聞いときます。

気を取り直し、そのままテコテコ北上していくのですが今回はとりあえずここまでで。

  

Posted by どっちゃん at 17:06てんこもり劇場・播磨国風土記

2008年12月18日

取材・宍粟(林田の里)

今回は安志姫神社からちょっと国道に戻って、29号線をてこてこ南下した林田の里です。
とはいっても、、ボクが住んでる所だと龍野側から北上して行ったんですけどねニコニコ

で、觜崎橋からてこてこ東に走り「そうめんの里」を左に見つつ神岡小学校の手前の三叉路(堀整形外科手前)を北上。
ちょっと走ると左手の山のふもとに祝田神社の真っ赤な鳥居が見えてきます。


最初の一箇所目はこの祝田神社。
祝田と書いて「はふりだ」と呼ぶそうです。
この「はふりだ」が転訛して「はやしだ」になったということです。
本文の中でも説明してなかったのでここでしときます。

看板の所を左折して神社の前に。

車を止めて鳥居をくぐり境内に入っていくと、先ずは銅像のお馬さんが2頭出迎えてくれます。
その間を通り石段を上がっていくと「貴船社」と書かれた建物が・・・
貴船と言えば京都の貴船を連想するし・・・と思いちょいと戻って神社の説明の看板を見ると載ってました。
やはり京都と関係があり、この頃イベントさせてもらってる賀茂別雷神社(上賀茂神社)と関係がありました。



その「貴船社」をくぐっていてびっくり。
普通なら仁王さんや偉い人の木のあるところに木製(多分)の神馬がいた。
ここに馬がいたのは始めて見たので驚いた。






さらに石段をのぼり、祝田社(本殿)前の御手洗場へいってまたびっくり。
水の溜まっているところに亀のが・・・3匹も・・・
ん~なんとも細部に凝った事してあってちょっとうれしかった。


地図はこちら

お参りして、プラプラして次の塩阜神水へ向かう。
が・・・この塩阜神水、どこにあるか分からない。
この辺みたいなざくっとした地図はあるんだけど、正確な場所じゃなかったので一苦労。


特に車(ハイエース)だったので簡単に止めることもできず・・・あっち行ったりこっち行ったり。
30分くらいウロウロした。
途中史跡めぐりの看板を見つけたが、その通り行っても見つからず・・・。
で、ようやく見つけたが、あの看板じゃ分からんわ。
公園の横の細い路地を通って、公園裏にあるんやもん。
 


どうせ現場見ない業者発注したに違いない!ボクならこんな分かりにくいようにはせんぞ!とか思いつつ次の林田八幡神社へ。
地図はこちら

国道29号線に出てから、途中ヤエガキ酒造を見ながら北上。


「青の無」呑みてぇな~
生絞り、呑みてぇなぁ~
とか思いつつ。

ちょいと行ってから林田八幡神社の看板どおりに右折して、左折して・・・
ここの八幡さんは結構大めでした。
地図はこちら

そして、この辺でコンパクトカメラの電池が切れ、ついに・・・ついにこの取材の前に届いたLumix G1ちゃんの出番が来ましたメロメロ

残りの境内の様子は写真でお楽しみを(笑)
(ちなみに久々のちゃんとしたカメラ触ったので、感覚がまだ戻ってなけどあしからず・・・ってもモトモトそんなに上手くも無いけど。。。)













  









おそまつ!
  

Posted by どっちゃん at 14:15てんこもり劇場・播磨国風土記

2008年11月28日

取材・宍粟(安師の里)

とんと、ご無沙汰な取材日記・・・行ってもそのままになってたりして・・・いや~ちゃんと書かなくちゃいけませんね。

てなわけで気を取り直して、一宮まで来た伊和大神はここを本拠地にし国づくりをはじめたようです。
今回の取材はそこから国道29号線(因幡街道)を揖保川沿いに南下し、山崎に付いたら道沿いに東へと進みます。
少し走ると安富町に着くのですが、今回の取材はここら辺です。

山崎から安富、福崎は中国自動車道路の下を、右へ左へ走る道です。
ちなみにこの下には山崎断層があって、プルプルっとゆれると大変なことになるところの上に高速が走ってるそうです。

それはさておき、この中国自動車道路、小さいとき(今も?)ここ安富を通るときはいつも楽しみに北側を見ていました。
実は高速沿いに安志加茂神社、安志稲荷神社の鳥居が見えるからです。


別に鳥居が見えたからどうって事はないんですが、この神社毎年ドデカイ絵とのわら人形を飾るので、それが見たくて見たくてしょうがなかったってのがあるんです。
てなわけでちょいと寄ってみたりしてます。

去年の超でかいネズミねずみ


今年はウシシウシ

・・・・それはちょいとおいといて、今回取材して気づいたのですが、安志稲荷神社を安志姫神社と勘違いしてました。

こっちが安志稲荷神社


実際の安志姫神社はもう少し東に行ったとこの道路沿いにあります。

ちゃんと調べていかないとねー。


安志姫神社です。


本殿です。



灯篭ちゃんハート
  

Posted by どっちゃん at 23:37てんこもり劇場・播磨国風土記

2008年03月28日

取材・宍粟(宍禾の郡・伊和村)

なんだかブログ、続けて3日目に突入ニコニコ

佐用で散々な伊和大神でしたが、千種川沿いに上流へ上がっていき千種に抜け、千種から東へ(国道429号線)と進んでいくと、波賀から一宮へとつながります。
一宮は、言わずと知れた本拠地、伊和神社がある場所です。

ようやくここで腰を落ち着け国造りを進め始めます。


伊和神社はそれとなく昔からチョコチョコ行ってて、最近では去年の夏に中学校で教えてた子が久々に帰省しているときに一緒に連れて行きました。

その子は当時就職したてで、上司との考え方の違いや本人の生真面目さがよくない方へ方へといっていて、実際の仕事に行き詰まりを感じたりネガティブ思考になってたから、イロイロと話しながら連れてきましたなー。

佐用の子だったので、昼頃JR姫新線の千本駅に呼び出して近くの千本本陣で蕎麦食って、ほんで姫路の方へブラブラ行ってから伊和神社へ行った・・・よなたしか。

姫路からだと、国道29号線をえっちらおっちら北上し、「道の駅 播磨いちのみや」まで行けば目の前が伊和神社になります。




境内はうっそうとした森になっているから、ちっちゃい頃はかなり恐怖を感じる神社やったわ。
いつもなぜか「と~りゃんせ~、とうりゃんせ~・・・」って歌が頭の中をグルグルまわってて、足を踏み入れたくない場所の一つでねーガーン

なんか、感じるものがあったんやろうね。
今でも境内に入ってすぐは、なんだか身が引きしまる感じがしてならないんだけど。
地図はこちら

ちなみにこの神社は北向きに建ってます。
理由は、自分(伊和大神)の出身である出雲に向かっているとも、社殿の奥にある鶴石に大きな白鶴が二羽石の上に北向きに眠っていたのでその所に社殿を道営したからとも言われてます。

  

Posted by どっちゃん at 02:03てんこもり劇場・播磨国風土記

2008年03月26日

取材・佐用(千種川・筌戸)

皆様ご無沙汰です。
今年に入ってから、絵を描いても描いても全然仕事が終わらず、すっかりスケジュールがグダグダになってるどっつぁんです。

それはそれで、取材日記の続きです。


玉を落とした伊和大神は次は東へと進路をとったと思われます。

佐用での足取りをまとめてみると、佐用都比売神社の前を流れる江川川(玉落川)を県道240号線沿いに上流にのぼり、前回のブログでは逆向きで行きましたが、豊福を越えて県道161号線から平福の方へ抜けたのではないかと思います。
そのまま庵川伝いに寺坂峠(県道443号線)を越えて上三河へ抜けたようです。
次の話となる筌戸はこの上流の辺になります。

ちなみに、上三河に抜けたちょいと下に馬螺ヶ渕って場所があるんですけど、ここに私の作ったカッパの石像が座っていますので近くを通ったさいにでも見に行ってやってください。

地図はこちら
ちなみに、うちの実家の駐車場にも、同じようなカッパの兄弟のカタワレがいます。



峠を越えてぶつかった川は千種川で、佐用では南光側を流れています。
江川川や佐用都比売神社の横を流れている佐用川は、上月の下の久崎の辺りで千種川と合流し、瀬戸内海へと流れでます。

その千種川。
三河を上に上がった久保田のバス停の北側辺りは、大昔に斜面を削った形跡があるとの事です。
どうも西側の尾根がせり出し、川東は大岩があり大きな池のようになっていていたようです。
おかげで千種川は船で渡るしかなかったそうです。
その名残かその真北の山を船越山といい、山の中なのに船で越すなどと不思議な名前がついています。
ちなみに船越山はサルで有名な瑠璃寺のあります。

地図はこちら
ちょっと余談なんですが、瑠璃寺の呼び方なんて言うか知ってます?
うちの地元では「るりでら」と呼んでたのですが、ここ佐用に仕事に来はじめて知ったのですが「るりじ」と呼んでます。
なんだか昔から「るりでら、るりでら」と言っていたからなんだか気持ち悪いのですが、地元の人か言うのが間違いないんでしょうねぇ。



さてさて話を戻して、その大きな池で網を張って魚とりをしたと考えるのは、すごく自然な事ではないでしょうさてさてかねぇ。

しかし今回も思うようにならず、そのまま千種川を上流へと進み、次の土地へと流れて行きます。
  

Posted by どっちゃん at 18:24てんこもり劇場・播磨国風土記

2008年02月15日

取材・佐用(讃容の郡・玉落川)

「ずぼら王」のどっちゃんです。
書こう書こうと思いながら、取材日記がトンと止まっておりまして・・・エエ。

ちょっとは反省して、今日は続きを書こうかと思います。



さてさて前回からの続き、佐用(讃容の郡)の事の起こりを書き始めています。

で、つぎの「玉落川」についてです。お忘れの方はサイトのトップページから確認お願いしますね。
玉落川は現在の江川川となっています。

周辺事情(古事記・日本書紀と比較した時代背景)は前回説明したので、佐用に入ってからのことから話は始めます。

風土記の中で伊和大神は、播磨国に入って来た経路や一時期だけでもした平定した佐用のくだりはなくて、いきなり佐用都比売神にフラれるシーンから始まります。
原文では、後は淡々と大神の玉が川に落ちたので玉落川と言ったとなっています。

ただそれだけの記述なのですが、古代における玉とは王の証である三種の神器の一つの玉(勾玉)をさすことだし、それを落とすということは戦いで負けて、獲られたと考えるのが自然だと思います。
まぁ今回は佐用都比売神にコテンポパンにされて、王の証の玉を獲られたという、結構シビアな話なんですよね~。
単なるおトボケさんな話ではないんですよ。
面白おかしく描いてますけど。


それから、江川の名称の由来については、スペースの都合で省いてしまったのですが、もともとは吉川と書いていていたそうです。
「稲狭部大吉川(いなさべのおほえかわ)」という者がいたのでこの地を吉川と呼ぶようになったそうです。




さてさて、今回の取材場所は前回行った佐用都比売神社から国道373号線(智頭街道)沿いに北上し、平福を抜けて少し行ったところから、左手の県道161号線に入って行きます。
普通に舗装はしてあるのですが、いかにも田舎の山道で坂を上がっていくと棚田があったりとてもいい感じな道です。


トコトコと坂を越えて県道240号線を右折ししばらく走ると右手唐突に鳥居だけが道に面してあります。
鳥居の横にはバス停「王子」があります。
車を道の右側にある空き地スペースに止め、鳥居を潜りテクテクと山の方へ上がっていくと目的の江川神社にたどり着きます。


ちなみに鳥居越えてチョロチョロ流れているのが江川川です。
江川川自体はそんなに大きな川ではなく、佐用川の支流になります。

山の中腹にこじんまりと神社はあります。
室町時代からある県内最古の建物とか。



そうこうしてると日も陰ってきたので、もう少し奥にある磨崖仏を見てみるために車に乗り、神社の前を横切る道を奥へ奥へ。
どんどん奥に入っていくと道路の右側に石階段があり、お地蔵様が見えたので、降りて近づいてみると「オチチ地蔵」なるものがあった。
ので見てみるとなんとなく地蔵さんの胸がふくらんでいるような気もする・・・




オチチ地蔵を拝んでから、ウロウロしていると神座ナメ磨崖仏の看板を見つけたので車を止める。
磨崖仏がどこかと探してみると、看板の奥の斜面に鎖が・・・
一応、その鎖の始まりには・・・



とあるが、どこを見ても磨崖仏は見当たらず、結局上るしかなかった。

鎖を伝って上がってみました。



・・・すっげー崖です。



そのまま伝って行って磨崖仏も無事発見。



しかし手を合わすこともできず。

帰りもヒョロヒョロと鎖伝いに帰ってきました。

せめて道から磨崖仏が見えるように枝をはらってくれるだけでもしておいてほしかった・・・。


  

Posted by どっちゃん at 19:14てんこもり劇場・播磨国風土記

2007年10月04日

取材・佐用(讃容の郡)

いや~、先月は取材日記をズルズル残してたんで今回はタッタと書いちゃいましょう!

まだ今回も名称の起源の続きですが、今回から微妙に播磨の起源となる神話の話を時系列的に続けて描いていこうかと思います。(そのうち播磨国風土記年表でも作ろうかと思いますので、しばしお待ちを!)

と言うことで、今回からは播磨国を統一していく「伊和大神」の話から進めていこうかと思います。
しかし、すでに今までのヘッダーを読めばお分かりでしょうが、ここに出てくる神さん達はフラレたり、嫉妬したり、親子喧嘩したりで、あまり神々しい雰囲気じゃ無く・・・描いてる方も結構楽しいですなニコニコ


播磨の起源の神話を描くにあたって、その周辺の時代の事とか、登場人物についてとか先にちょっと説明しときます。

今回から続けて出てくる「伊和大神」(伊和族)ですが、出雲の国から来た一部族だとか、播磨統一の過程で土着の神を習合していったためそう呼ばれるようになった・・・とか言われてるそうです。

また「伊和大神」は「大国主命」の別名「葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)」で出てくることを思うと、「伊和大神」は「大国主命」もしくは「大国主命」の八十神(やそがみ:多くのの神さまのこと。この場合、大国主命の兄神)では無いであろうかとも言われています。


時代的なものでは「古事記」や「日本書紀」から読み取ると、天津神(天の神さん達)が国津神(地上の神さん達)から、葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)で譲り受けた(・・・?たぶん取り上げ・・・)後の話ではないだろうかと思う。

国譲りがあると、政治の中心が大和になっていく。
そうすると色々な部族が中央に出向いていく・・・都会に立身出世を求めて・・・。
そんなのを田舎で聞いてた伊和族も、遅れまいとついて出てきたのではないだろうか。
でもその途中で自分達で仕切れそうな国・播磨を見つけ腰を落ち着けたようですね。

そんな時の話です。

今回は伊和族ご一行が、出雲から播磨に入ってすぐのところの佐用の名称と佐用都比売神社にまつわる話です。

実は私1999~2001年までこの近くの中学校で美術の先生なんてしてたんですな。
それで何度か祭りの時に補導に来たことはあったのですが、久々に行ってきました。

龍野太子バイパスから説明すると、福田を龍野方面で降りて国道179号線をえっちらおっちら、新宮を通過し三日月、南光を越えて佐用に入ります。

余談ですが、新宮三叉路を左折せずに山崎側に少し行って左に行った新宮小学校の向かいに、私がこの取材とか歴史的なことを調べたり教えてもらったりしているY氏がお勤めの、たつの市埋蔵文化財センターがあります。(新宮総合センター内)
この埋蔵文化財センター、ちょっとかかわりが深く昔私がバイトで復元・着色した土器が展示してあります。

地図はこちら
たつの市埋蔵文化財センター


さてさて、そのままずんずん進んで、佐用坂を越えた後最初の十字路を右に曲がり川沿いを数百メートル行くと、左手の川と田んぼ越しに消防署が見えてきます。
その前の道をズズッと入って行き消防署の前を通り少しいくと、コンモリとした木立ちの塊があります。
そこが佐用都比売神社です。

ドン着きに駐車場があるのでそこに車を止めれます。





周囲は田園に囲まれのどかな雰囲気が漂ってます。
とはいえやはり山間部なので、農地よりも山林の活用の方が多いみたいです。

佐用都比売神社側に行かず、そのまま智頭街道を少し北上すると、宿場町の道の駅「平福」があり、車を止めて旧街道沿いや川沿いを散策するのをお勧めします。
川沿いの町並みはとても雰囲気が良いですよ。

他にも、佐用は星の町で西播磨天文台がおかれ、たしか2・3年前に世界最大の公開望遠鏡『なゆた』はがあります。
夜に行くとものすごい星で、かなりの感動です。

なんだか観光案内みたいになっちゃいましたが、佐用はそんなところです。

あ、そうそう確か10月30日が佐用都比売祭だったはず。
もうすぐですので是非一度お尋ねくださいね(結局観光案内かよ!笑)

地図はこちら
  

Posted by どっちゃん at 11:42てんこもり劇場・播磨国風土記

2007年10月01日

取材・姫路(日女道丘)

いや~、とんとお久しぶりです。
夏は長期の取材やらイベントやらで、書きそびれてズルズルとなっていました。

さてさて第4回のてんこもり劇場は姫路の語源となった日女道丘(現:姫山)の話です。

原稿を描くにあたって調べてたら、ちょっとビックリしたことがありました。
風土記が書かれたころ・・・というか江戸時代あたりまで、姫路平野は川の氾濫で「海に似た状態」だったため、今の市街地は人が住みにくい状態だったそうです。
まぁ、それとなく耳にしていたんだけど、場所的に言うと山陽自動車道路の走っている辺りの山すそから南側がほとんど水浸しだったとか・・・・・・オドロキ

船で新在家のあたりまで行けたってのに驚きですね。

水浸しの状態でポコ・・・ポコ・・・って突出した山(丘)があって、その山すそすそに人が住んでたそうです。

なんでそんなだったかというと、姫路平野には6本の川が流れ込んでいて、それぞれが暴れ川だったたそうです。

きちんと治水がされたのは江戸時代に入ってからで、今の姫路の市街地はそれ以降発展してきたそうです。


そのせいで風土記には現市街地のことはほとんど載ってなく、山すそ沿いの話が載っています。

そこで気になるのは、今の姫路の載っている風土記は「飾磨の郡(しかまのこおり)」
今飾磨と言えば、当時は海だったはずの浜手。

気になったのでちょっと調べてみると、古くはやはり現姫路周辺のかなり広い地域をそう呼んでいたそうです。
ちなみに姫路市の北東部に「飾東(しきとう)」北西部に「飾西(しきさい)」と当時の地名が名残として残っています。

ちょっと余談ですが、廃藩置県により1871年、姫路県が発足しました。姫路も一時期県として存在したんです。
その後、飾磨県となり、1876年兵庫県に統合されて今に至ります。
県庁舎は姫路城からちょっと西に行った薬師山麓の空き地(旧姫路赤十字病院跡地)にあったそうです。


さて、場所ですが・・・皆さんご存知の通りJR姫路駅正面口から出たら、目の前に姫路城が見えます。そこが姫山です。
ちなみに西の丸のあるところは鷺山です。天守閣がある方が姫山です。
駅からテコテコ歩いて15~20分くらいで行けます。

地図はこちら

さすがにここは迷子になりませんです。はい。


そうそう、私が描いた「姫路城の散策マップ」が税込み500円で売店で売っていますので(他のところでも売っていますが)、よろしければ是非お買い求めください(笑)  

Posted by どっちゃん at 00:29てんこもり劇場・播磨国風土記

2007年08月25日

取材日記・相生(壺根古墳遺跡)

気がついたら、もうすぐ9月・・・やっと日記を書く時間がとれました。

皆様ご無沙汰しております。
何してたかと言いますと、NPOの設立と相変わらず地図ばっか描いてました。
9月後半発行の「まっぷるマガジン熊本2009」と九州の温泉のやつです(名称覚えてません・・・)
本屋に寄ったときにでも見てください。

さてさて、今回の取材日記ですが、既にヘッダーは1日に更新されていますのでご存知でしょうが「相生」でございます。(もう次の原稿も描きはじめてるけど・・・。)

播磨国風土記の中ではごく簡単に「白貝(おふがい)が多く取れる浜がありました、だからそこを白貝浦(おふうら)と名づけました」とだけあるだけなんですがね。

で、これだけじゃ面白くないんで、例によってたつの市新宮町歴史資料館の文献あさりをしてきました。

その日は資料館は閉館だったんだけど職員の人に開けてもらってゴソゴソ調べてると、神戸新聞の記者も調べものに・・・
結構な時間うだうだ話してたけど、地元の事を知ろうと調べに来てるって、えらいねー。


さて本題に戻って、白貝が取れた地域を見てみると結構広範囲で取れてたみたいです。
そういえば前に、神戸大学と花園大学の研究者と、いつもお世話になっているY氏と新聞記者Hと共に御津沖の唐荷島に調査(取材)に行った時も大きな貝殻がゴロゴロしてましたわ。


語源に関して、相生は近年まで表記は「相生」と書いて「おお」と呼んでいたそうです。
由来は文治2(1186)年、海老名盛模が相模国から来住した時、「相」の字をとり居城「大島城」から呼び名をとって「おお」となったそうです。

その前は相生湾を那波浦(村)大浦(字)といっていました。

那波浦の記述は三並記の「荒神山三島社」の項に出てきます。
内容は、神宮皇后が三韓征伐に向かう時の水師軍の要港であったことなどが書かれています。

そんなこんなで色々と見ていって思ったのですが、「白貝浦はどこか?」って細かく突き詰めようと考えてる学者先生が多く、突き詰めた意見で書いてるのがほとんどでした。
それはまぁ重要なことではあるんだろうけど、個人的にはそんなせせこましい考え方やめて、相生からたつの市御津町大浦のあたりまでの広域で、貝の取れる地域をそう呼んでいたで良いんじゃないかなぁと思ってしまった。

ほんでまぁ、調べて行くうちに相生湾の端のほうに、古い時代にその周辺に住んでた人たちの古墳があると言うので行ってきました。




2号線の相生駅の手前から入り道の駅ペーロン城の横を通り、赤穂方面へ向かって行くと右手に相生産業高校がある。
向かいに左折して入る道があり、そこをあがっていくとIHIの海側に抜ける道と、赤穂の漁村へ抜ける道がある。



赤穂側に抜ける道を進んで行っていたら漁村に抜けてしまった・・・。
どこかで左に折れて海沿いに降りないといけなかったのにどこでどう間違えたのか・・・
Uターンして元来た道へ。
少し戻ると遺跡のある漁村方面へ降りる道を発見。

間違うはずもないであろうところで間違ってしまう自分が情けない・・・。

気を取り直してドンドコ進んで行くと道がだんだん細くなっていき、ついには行き止まり。
その行き止まりの右手の斜面に目指す「壺根古墳遺跡」があった。

ここでちょっと疑問が・・・。
表記が違うのである。
「壺根」のはずなのに「坪根」と書いてある。
ん~、相生の教育委員会さん。ホントはどっちなんですかいなぁ?



ま、取りあえず車を止めて古墳に上がってみる。
古墳は斜面に石で細長く囲って石室が作ってあるところに、平らな石を蓋のように置いてあるものが数基あった。
小さい頃から新宮にある「姥塚古墳群」や「宮内古墳群」を見て育った僕としては、規模的なものではちょっとものありなさを感じてしまった。(まぁ豪族の墓なんで規模を比較しちゃいけないんだけどね・・・。)






しかしこうやって何世紀も前の一般の人の墓が残っていて、当時の生活用品も副葬されていて、古代の生活を想像する手がかりが残ってるってのもすごいよな~・・・とか、ボ~っと海を見ながらほうけてみた。




ほうけついでに、神宮皇后が三韓征伐に向かう時にこの浜で舟の準備したり祭事を行ってたんよなー・・・と穏やかな湾を見ながら妄想してると、今もこの湾は舟に関係してることが多いよなとはたと気づいた。

湾は入り組んでいて、外海(って言っても瀬戸内海なんで比較的穏やかだけど・・・)が荒れていても、湾内はかなり穏やかだし、今もIHI造船所があったり、ペーロン祭でレースをしたりと舟に関することが多く行われているのも、湾の形が影響して発展してきたことなんやろなーと思いにふけって見ました。

余談ですが、当時は今よりももっと奥地まで湾が入り込んでいたようで。
古い文献から見ると、那波野辺り・・・・今の相生駅辺りまで湾だったようです。

平安の頃には舟を浮かべて舟遊びもしていたようですし。

そういや相生湾は万葉集にも歌われていた。
確か対岸の山の上には相生荘があって、その近くに万葉の岬なんてのもあるのを思い出した。



さて帰ろうかと車に戻って、ハッと気がついた。
Uターンしようにも神戸ナンバーの車が一番奥に止まっていてウンともスンともならない状況。
数100メートルバックするのもな~っと思ったから、ちょっと頑張ってみたけどやっぱりUターンはできず。
しょうがないとあきらめてバックで戻ろうと下がっていると、あらあらこんなところに車の止まってない駐車場が。
個人宅だったんだけど、申し訳ないけどそこで向きをかえさせてもらいようやく帰ることができた。

地図はこちら

  

Posted by どっちゃん at 21:17てんこもり劇場・播磨国風土記

2007年07月02日

取材日記・龍野

さてさて。
本日はてんこもり劇場更新の日で、例によって取材日記です。

第2回目からは予告どうり現在残っている市郡のくくりで、播磨国風土記に起源があるものを上げていきたいと思います。

てなわけで今回は一番地元の龍野です。
由来は出雲出身の相撲の始祖で、殉職の代わりに埴輪を作った人の野見宿禰(のみのすくね)です。

ヘッダーにの冒頭部分でもちょっと載せてますが、実は風土記の中では相撲のことや、殉職をやめさせた事については載っていませんが、同じ頃に書かれている「日本書紀」に載っています。

というのも、ただいきなり野見宿禰云々と書いても分かりにくい人もいるかなと思ったので、載せてみました。

もう少し詳しく紹介すると、垂仁天皇の時代、当麻蹴速(たいまのけはや)という力持ちがいて「世の中で一番俺が強いんだ~」と豪語していたそうで。
それを聞いた天皇が、「そんなことはない、他にいないか?」と全国を探させた時に出てきたのが野見宿禰。

それにより歴史上最初の相撲(角力、日本書紀では捔力)が行われました。
ただ、当時の相撲というのは今で言う異種格闘技見たいな感じで、蹴りもありで決め手は野見宿禰が当麻蹴の腰を踏み折って勝ったとのことです。
で、勝った野見宿禰は当麻蹴速が持っていた大和国・当麻の地を与えられて、朝廷に仕えました。

それから、皇后の葬儀の時、殉死にかえて埴輪を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたとされています。
土師氏は埴輪を作るだけではなく、代々の天皇の葬儀を司り、後に姓を大江や菅原に変えたとのことです。


余談ですが、相撲で土俵入りをする時、塩をまいたり四股を踏みますが、塩まきは清め・四股踏みは邪気払い(黄泉の力を封じる)儀式だと、何かで読んだ記憶がある・・・確か。

ということは、葬儀を司ってた土師氏が邪気(黄泉)を封じる儀式として土俵入りをしていたとすると、相撲と葬儀がつながって見えてきましたりして・・・ええ。

そんなことを思いつつ土俵を見てると、だんだん土俵が円墳に見えてならない今日この頃・・・。

      ・
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あ~ぁ、土俵の周りにちょっと埴輪を置いてみたい・・・。




・・・・さてさて、本題に戻って。。。

久しぶりに野見宿禰神社に行ってきました。

近くの駐車場(龍野神社)まで車で行こうかと思ったのですが、日々の運動不足解消にと思い、アトリエから歩いていくことにしました。

出発は龍野観光駐車場(揖保川沿いのところです・・・ってその裏がアトリエなんで・・・)。
てこてこ歩いて龍野城経由でもみじ谷を登っていき、野見宿禰神社へ行ってきました。
途中、林の中でガサガサ音がするので何かと思うと鹿がこっちをジーっと見てたりしてて。

神社の階段前に展望台があり休憩ついでにそこから町を見ようかと思ってみたものの・・・木々が生い茂り町並みがほとんど見えねぇ・・・ガーン
あぁ~ここもかよ!と思ってしまった。

ついでなんでちょっと(・・・また?)余談。
播磨地域における山頂もしくは丘の展望台スペースの手入れのされてなさは目に余る。
視界よりも高い位置に葉っぱが生い茂っているのはいかがなものか?
「展望台」って書いてあると普通景色が眺望できると思ってワザワザいくのに、上がっても木が茂っていて見えないんじゃぁ、意味ないじゃないの???

前も某公園(龍野じゃないよ)でそのこと言ったら、整備はやってると言われた。
してるとは思うよ、・・・・足元だけは、それなりに。
歩くところは整備されてるけど木の上のほうはほったらかしやって言ってるのに・・・全然聞く気が無いようで。
観光で来てる人たちが楽しむよりも、自分らが仕事で楽する方のが重要なんですよねー、管理する人たちは。
あ~ぁ、そんな人間が管理してるところを観光地なんて言うなよっ!て思う今日この頃・・・。


さてさて、話を戻して。

神社へ向かうボロボロの石段の両端には、龍野の最盛期には「芸妓百人」といわれていた頃の名残の芸妓の玉垣と、龍野巡業あった頃の角道隆盛を祈願した力士の玉垣が並んでいます。

石段を登った先には石の扉があり、そこで手を合わせて降りてきた。





帰りは龍野神社側へ抜ける道から降りてきた。

途中、第44代横綱栃錦直筆「力水」の碑が立ってる湧き水で手を洗い聚遠亭(しゅうえんてい)へ回って降りてきた。
しかしまたまた聚遠亭でも眺望できず・・・はぁぁぁ~って感じでした。



そうそう、聚遠亭を降りたところに元は土俵があったとか。
今は見る影もないけどねー。

相撲の始祖が眠る土地としては寂しい限りで・・・。


まぁ、そんんこんなの龍野取材でござった。

地図はこちら


それはさておき、ここのところホント・・・全然ブログ書いてないじゃん(-_-;)
バタバタはしてたんだけど。。。
ちょとまじめに書かねば・・・。  

Posted by どっちゃん at 19:39てんこもり劇場・播磨国風土記

2007年06月02日

てんこもり劇場・播磨国風土記~針間井~

今月から始まりました「てんこもり劇場・播磨国風土記」突然始まったので何のことやら分からない方も多いと思いますので、そのいきさつを少し。

先月15日にてんこもりスタッフ・フジさんと新人ザキさんが訪ねて来られまして、ブログのヘッダーのイラストを頼まれました。
例のアヒル会議の時です。

描く内容はもちろん播磨のこと。
でも今あるものは結構描かれ尽くしてるし、現存している表面的なものだけをなぞるのは簡単だけど面白くないし・・・。

で、せっかくするなら知識がついて楽しいくて、描くものがいっぱいあるほうがいいのでは?と提案。
そこで「播磨を知るには先ずは播磨国風土記でしょう!」ってなわけで今回からマンガ連載することになりました。

とは言うものの、私自身風土記に興味はあったのですが、全部の話を読み砕いて理解している分けじゃないので、これを機に文献あさりと取材を敢行して、播磨各地の起源を紐解きながら立派な「播磨国風土記マスター」を目指したいと思います(笑)


描くにあたって、もう一度風土記を眺めていたのですが(もちろん現代語に解釈されたものです)、播磨国風土記自体は東の方から地域別に書かれているので、地域に重点をおいて見るにはこれでいいのですが、
これだと物語としてはちょっと分かりにくいかな~と思ってしまった。

それならば、先ずは風土記にその名称の起源の残るもの(国名をはじめ現在ある市郡のくくりで)から書き出していこうと思います。
その後は時系列的に物語を展開していった方が、播磨国ができてきた時代の、太古の時間の流れを感じてもらえると思うので、その流れで進めていきます。

注:市郡のくくりで行くので町名・村名や字といったものはその後の物語の中で取り上げていきます。



で、はじめはもちろん「播磨」の名称についてです。

さてこの名前、どこからどのように来た(発生?)のでしょう?

実は播磨国風土記は、巻頭から明石の郡までの部分がなくなっているので、国名の由来もなくなっているので実際には分からないといえば分からないんです。
でも本文や他の文献に話が出てきていて、諸説あります。

しかしやはりそこは断定したいもの。
いろいろな人が探しています。
他の文献や史跡等で残っている事や学者先生の研究をふまえ、現在一番有力な説を採用しました。

すでにヘッダーのマンガで描いていますが播磨は「針間井(はりまい)」から来ています。
「萩(はぎ)の間(ま)の井戸」から表記が「針間井」に変わり「播磨」となったとの事です。

風土記では中ごろで揖保の郡(いぼのこおり)。
時系列的には中ごろ(中期)後半の話です。

そのほかの播磨の由来とされているものとして、「弓のように張った浜」「雨の晴れ間」「浜の延音」・・・などなど、あります。


で、ここまできたら次は取材。
地図上で見ると「針間井」のある「萩原(はいばら)神社」が見当たらない・・・。
そんな時、考古学やら文化財のこととなるといつもお世話になってる、たつの市教育委員会のY氏に場所を教えてもらい探してきました。
で、だいたいの場所を教えてもらい、いざ「萩原神社」へ。

国道2号線姫路方面から相生方面に西向きに走り、揖保小学校あたりを左折・南に下って行けば揖保町萩原にあたるはず・・・が、
天下無敵の方向音痴、どこでどう間違ったのか全然分からない。
軽自動車で行ったけど道が狭くて怖い怖い。
狭い村の中をグルグルまわって、立ち話をしている同じおばあちゃんの前を2度ほど通過し、20分ほどウロウロしてどうにかこうにか土手へ上がる道を見つけて一安心。
とりあえず分からなければ、土手沿いに走っていると見つかるとのことだったので、上がってみました。
それから、土手沿いを南へちょちょっと走ると、それらしきコンモリとした木立の固まりと建物を発見。
土手の上に車を止め、近づくとビンゴ!
ようやく「萩原神社」発見しました。





先ず目に入ってのは、木立に囲まれた神社の境内の真ん中に芝で作られた井戸を模した丸い円。
その横には「針間井」遺称地の石碑と石灯籠。
社の中にはいくつかの絵馬と昔の萩原神社の写真が飾ってあり、社の右手には歌碑、裏には石塔が4つほどおいてありました。














播磨名称発祥の地としては、少々寂しいような感じも受けましたが、何もないここだから10何世紀もひっそりと伝承されてきたのかもなぁ・・・とか考えながら田舎である好さを感じてみました。

取材を終え、土手をから降りようと南へどんどん下って行き、降り口を見つけたのですが「一般車両立入禁止」の札が・・・あれ?
どうりで土手のど真ん中に車止めてても他の車が来て邪魔になることがなかったのだと納得。
知らぬとは強いものですな、ハハハ。

帰りは妙にすんなりと村を出れまして、すぐに大きな道(といっても2車線だけど)を見つけ、たったと帰れました。
帰りに気が付いたのですがUCCの工場の横から入って道なりに行けばよかったのね。

地図はこちら